山伏講の研究  講の成立  
吉野山から大峰山山上ケ岳にかけての一帯は古代より金峯山(きんぷせん)と称し聖域でした。
この金峯山に役行者が白鳳年間(7世紀後半)に修行に入られました。
修験道の開祖役行者は、在家にして仏法修行に励む行者(優婆塞)として、
一生修行を貫かれております。
明治7年(1874年)には、明治政府により修験道が禁止されています。
金峯山寺(金峯山に点在する寺院群の総体)は、一時期、廃寺となり復職神勤しますが、
同19年(1886年)に天台宗末の仏寺として復興。
其の後、戦争の時代、昭和14年(1939年)9月第二次世界大戦の始まり、
昭和20年(1945年))の敗戦終結。
昭和23年(1948年)には、蔵王堂(国宝)を中心に、金峯山修験本宗が立宗されています。

尚、大峯山護持院とは、桜本坊(金峯山修験本宗)、竹林院(単立)、東南院(金峯山修験本宗)、
喜蔵院(本山修験宗)、龍泉寺(真言宗醍醐派)の5か寺である。うち龍泉寺は山上ヶ岳の麓の天川村洞川(どろがわ)に本寺があり、他の4か寺の本寺は吉野山にあります。
当講は櫻本坊直属の行者講社であります。

櫻本坊輩下の大峰組時代
当講の成りたちは古くは、大正4年(1915年)創講の大峰組に遡ります。
昭和の時代に入り大峰組は当時の世相景気を反映し活況を呈していきましたが、
世のバブル崩壊と共に、次第に講中にも綻びが生じてきました。
役員の主張の集約が図れず、平成9年8月23日付けで、
11名の行者が「退組届」を提出致しました。

櫻本坊輩下の大峰龍王講時代
その後大峰龍王講として、櫻本坊様に行者講社として認可頂きました。
当初は11名と少数でありましたが、次第に移籍してくる行者が増え、
作法伝承の多くの行者が入講致しました。

当初は創講のエネルギーから講員も徐々に増えたものの、
次第に老齢化する中で講員も減少していきましたが、
平成20年頃からNET御縁の新客が飛躍的に増え講員先達も増えていきました。
然しながら集団の主張の集約を図るのは難しく些細なトラブルも積み重なり、
平成24年の講元の病、御山での滑落事故(奇跡的に救われる)を切っ掛けとして、
平成25年役員の殆どと16名の講員が退講致しました。

櫻本坊輩下の大嶺講誕生
平成25年4月24日、創講役員6名の総意確認の元に、講規約等(前講退講届講員名簿・講則・
役員名簿・講員名簿・登山l参拝案内)をまとめ、大峯山行者講社本部・大峯山護持院.櫻本坊
院主巽良仁様に提出し、その場にて一頁一頁全文を確認頂いた後、櫻本坊行者講社大嶺講として、
認可を頂きました。 
更にその場にて「当山直属大嶺講・・」とした、役員委嘱状の希少貴重なる
お話を頂き、役員総意確認の元に、講則第11条にある重要事項決定権者三役(講元・
副講元・総務長)の委嘱状授受を決定し、平成25年7月7日、入峰修行満行護摩供の後に、
櫻本坊院主巽良仁様より直々に授受頂いております。

上記の様に当講は、2度の分裂の末に誕生しています。
故に、講中の安全(必読)には、特に厳しい講社と成っています。
先達 成立 安全